「10年の軌跡」

 

平成3年の4月、フリーランスとして独立してから、今年で10年になる。
机とスタンドとベッドがあるだけの小さな部屋が、最初のアトリエだった。
当時の宝石業界はバブル絶頂期で、どの会社もこぞって新作を発表していた時期だった。
ハウスブランドはもちろん、海外の有名アパレルメーカーのライセンスブランドが次々に展開され、自社デザイナーだけでは間に合わない、またマンネリを防ぐといった意味もあって、外注デザイナーが重宝された時代だった。

例に漏れず、私にも山のように仕事が舞い込んできた。
締め切りが一日に何件も重なり、睡眠時間は2〜3時間がいいところで、それも夜中に起きておく為に眠っておくといったものだ。
やっと一段落ついて、ゆっくり眠ろうとした朝、クライアントから呼び出しの電話がかかってきて、結局24時間以上起きていたこともざらだった。
前夜に食べた生牡蠣にあたってしまい、激しい嘔吐と高熱が続く中、からっぽになった胃袋にお粥と解熱剤を流し込み、早朝4時から机に向い、9時の納品に間に合わせたこともなつかしい。

コーディネート・セミナーのサポートや展示販売会で、地方へも出張もあった。
今とは違い、携帯電話が普及していない頃だったので、留守番電話を出先から聞くと、用件が何件も入っていたり、帰宅するとFAXが何枚も流れていたり、とにかく忙しい毎日だった。
作れば何でも売れる時代だったので、本意でないモチーフも随分描かされた。
スウィートテンの企画物など、何十型描いたか知れない。

内容はともかく、フリーランスとしての出だしは、順調だったように思う。
好きなジュエリーの絵を描いて過ごすことは楽しく、うれしい悲鳴の連続に、当時は充分満足だった。
しかし、ただ慌ただしく仕事をこなし、息吹を注ぐこともなく製品化されていく大量生産品は、もうたくさんだと思うようになったのも事実だった。

バブルの崩壊は、勢いだけで大きくなった業界を、見事に篩いにかけた。
また、バブルムードに踊らされていただけの消費者も、なりをひそめ、聡明で心豊かな人々だけが、本物のジュエリー・ファンとして君臨できる、よい時代が来たと思っている。

'90の半ばに、今のアトリエに移り、オートクチュール中心の仕事に切り替えていった。
自分のラインが定まったのも、この頃だ。
特定少数でいい、私と同じ想いを持つひとりひとりのために、血の通った仕事がしたいと想った。
冷たいジュエリーは、もう私には描けない。
そう、ジュエリーに温度があることに気付かせてもらった10年だった。

歯の浮くような褒め言葉で、私にやる気をおこさせてくれた友人たち。
記念日の度に、私のデザインを求めてくださる方々。
心から心から、感謝しています。